Love Letter ver.2

神経発達症とHSPを併せ持ちながら今を生きる。その日常と思うこと。

それでも日々は続く

いつか春の日のどっかの町へ (角川文庫)

 

今、ちょっとずつ読み進めている本。

普段なら大抵の本は30分~1時間で一気に読破するのだが、最近は多忙さと気忙しさに拍車がかかり流石に手が出せない。

こんな時はエッセイに限る(オーケンさんは私小説だと書かれているけれど、エッセイと解釈しても差し支えないかと)。

 

そんな訳で。

身内の容態が「いよいよ」のところまで来ており、今も急変の連絡が入るやも?とヒヤヒヤしながらキーを叩いている。

危篤というと、ドラマにありがちな

【報せを受けて駆けつけた家族や友人・恋人に見守られながら息を引き取っていく】

ものなのかなあと想像していた。

実際は危篤→落ち着くを繰り返しながら徐々に衰弱していっている状態(昨年亡くなった別の身内もこのケースだった)。

しかも連絡が入ったところですぐに駆けつけられるとは限らない。

やむなく、自分の状況を優先せざるを得ない場合もある。

「人間、死ぬ時はひとり」

とは言うけれど、看取ってくれる関係者やお世話をしてくれる人もいないままで、という可能性も実際無きにしも非ずなのだ。

「元気なうちにどのくらい人と繋がりを持って、どのくらい徳を積むかが大事になってくるのかな」

などと話をしている。

でも本当に、心身とも消耗するものだなあと思う。

勿論いちばん大変なのは患者本人ではあるのだけど。

 

天に還ってゆく時の段取りまでも自分で考えて、管理していかなきゃいけないご時世なのだな。

「生きていくのも大変だし、死んでいく時も大変だし。は~あ・・・」

とぼやきため息つきながら、それでも日々は続いている。

 

 

話変わって。

以前の記事で書いたような気もするけれど(←記憶力ボロボロ)

【困っている人や苦しんでいる人を見たら、どんなに体調が悪くても手を差し伸べようとしてしまう】

自分の性質について。

これを母親に話したところ、ひどく同意され

「私も私も!」

「いや、おばあちゃんもだで」

「いや、おじいちゃんもおばあちゃんも」

えらい盛り上がってしまった。

体調の良し悪しに関係なく、パッと直感が働けば最後。

身体が咄嗟にその人をフォローしようと動いてしまう家系(?)らしい。

これが近しい人・好意を持っている人に対しては顕著に現れる。

そんな時、体調は勿論、私の場合は障がい特性すら吹っ飛んでいる(ゆえ、反動で一時的に体調悪化する事もままある)。

話す言葉や書く言葉がまだまだ拙い分、余計に行動に現れるのかも知れないけれど。

 

昨年からの出来事を踏まえて、今、ふわふわと浮かんでいる思いがある。

「誰かに支えられる立場ではあるけれど、ひとりの人間としては、誰かを支えていけるように」

これが「なりたい」ではなく「なろう」に変わってきた。

上手く言えないのだが、定まってきた感がある。

無論水面下では勘がぴくぴくと働いている。

なにかに引っ張られている感じを受けながらも、閃くままに、心のままに。

 

All My Loving

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今年のツツジの開花は例年より遅く、この時はまだ咲き始め。

この蒸し暑さであっという間に見ごろ~散り始めになってしまった。

そして瞬く間にGW突入。

私は最近の疲れがドッと出たのと月の痛み(Twitterには胃痛と書いたが、ホントはこっち。流石にこの手のネタは書きにくくなった今日この頃)でダウン。

体の悲鳴にきちんと応えておやすもう、という連休である。

でも明日はお出かけしたい。

うずうず。

 

前回の【あまーい言葉を言ったり書いたりが極端に苦手問題】の続き。

先ほど、湯船に浸かりながら(←朝風呂好き)ふと気付いた。

「そういえば私、今まで褒められる経験が無かったな・・・。ボロクソ言われ叩かれ、果ては何度も酷いイジメに遭ったし」

容貌は酷かったし勉強は全くついていけないし極端な運動オンチだし、おそらく自閉の特性ゆえの問題も多々あったとは思うけど。

「何でこんな事もできないの」

極端に自分を卑下する心は着々と根付いていった。

で。

診断を受けてから数年間、就労支援施設に通ったのだが、この時も褒められた記憶が無い。

というより、どうも私は【そつなくこなす人】と昔から思われてもいたらしい(もちろん上記の通り、出来る事出来ない事に極端な偏りはある)。

でもこれも、決して良い動機からではない。

他の障がいの人たちが支援者さんやメディアに

「よくがんばったね!すごいね!」

と取り上げられ褒めちぎられする事に嫉妬し、生来の負けず嫌いに火がついたからだった。

昔からどんなに頑張っても褒められる事は無く、寧ろ、欠点を叩かれ続けた。

だから、他の人が体調や能力面の理由で手をつけられなかった作業までもこなして密かに優越感に浸っていた(とはいえ当時は無理が祟り、後に体調を崩している)。

今こうして書いていても、やなヤツだな、どす黒いな、って思う。

 

このブログを続けていて気付いたのは、私の場合、障がい特性以上に成育歴ゆえのハンデがとても多い事。

理解して支えてくれる(褒めて伸ばしてくれる)人が周りに1人でもいたら、ここまで卑屈になり、劣等感と嫉妬心に苛まれ続ける事は無かっただろう。

「自分を褒められないどころか卑下するばかりなのだから、そりゃあ人を褒める言葉なんて簡単に出てくる訳無いよね」

今改めて障がい者以外の人とも関わるようになって、自分の周回遅れや経験値の無さや低さを痛感し、その都度チクチクと痛みを覚えてしまう。

 

人それぞれの【あたりまえ】がある。

持っていてあたりまえ。

持っていなくてあたりまえ。

どちらが常識で正解、なんて事は本当は無いのだ。

無い筈なのだ。

 

20代の頃に一度だけ、箱庭療法を受けた事がある。

取り組む前は

「人間への憎しみ満載のドロドロした血生臭いものになるだろうな」

と思っていたのだが、フタを開けてみれば『となりのトトロ』のような世界が出来上がっていた。

今こうして細々とupしている拙い写真たちもそうだ。

以前の記事に書いた、成育歴の反動で人や生き物に手をかけるどころか、とても愛おしく感じてるんじゃないか。

日々覚え続けているチクッとした痛みや相手に意思が伝わらず凹んだ時も、憎むよりまず、どうしたらいいかと考え始めているじゃないか。

 

今までのように適当にキャラ作って、上辺だけで人と繋がったりお付き合いしたりは出来る(触覚過敏も和らいだし)。

でも。

相手の見え隠れする心の襞に触れてみたいと願う時、まず私が触れられてもいいと感じる心のありようでいたい。

纏わず盛らず、裸の心で。

 

そして、言葉も。

んが。

 

先日地元のお店でねぎ塩ラーメンを食していて、ふと

「そういえば美味しいもの食べる時って無言になるよな」

と気付いた。

ここまでは誰しもある事かと思うけど、私の場合例えば本当に楽しかったライヴは内容を失念するほど記憶が飛び(脳内でおぼろげな映像は残る)、勢いで飲みに行き、そのお店での出来事はしっかり覚えてる・・・という事がよくある(爆)

あと、花や景色を見て

「綺麗だな」

と思ったらよほど親しい人に対しても、まず写真を撮って

「○○(場所)に来てるよ!」

と一言添えただけのメールを送ったり。

どうも私は、感情を言葉よりも行動で表すタイプらしい。

 

しかしやはり

「俺の背中を見ろ!」

じゃなくて、ちゃんと言葉にした方がいい事もあるんだよな(ごく最近それを痛感した出来事があった。申し訳無い)。

叩かれ続けた傷が深く、ごくたまーに褒められても居心地悪い私ですら、後々にじわじわ効いてくるから。

褒められて伸びる、というのも何となく分かる気がする。

 

コミュ障。

障がい特性でもあり、成育歴由来のそれでもある筋金入りな自分。

人との繋がりや言葉でのやり取りが増えると、それらも治ってくるんだろうか。

どうなんだろう。

 

 

 

 

場の流れで発された言葉とはいえ、大きな目標を持って生きる事はかっこいい。

その姿も十分かっこいい。

もはや

「ほれてまうやろ!」

レベルだな。

と最近、すごーく思った事がある。

 

やはり言葉で表す事も大切なのだな。

後から後から、じわじわと心の襞に沁み込んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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素直になる

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空間を見ているようで、腰掛けに別の何かを見つめていた(気もする)。

 

最近、やたらと色合いの鮮やかな写真を撮っている。

悲惨な事件や腹の立つ事(おもに政治)も相変わらず多いし、たまには空や光を心から感じてみたいのもあるのかなー、と思ったり。

ちなみにこれを書いている今、雨が強弱を繰り返しながら降り続いている。

これでまた、緑が鮮やかになり作物が生長していく。

人間界のゴタゴタに関係なく、自然界はごく当たり前の営みを繰り返す。

どうせなら、自然のリズムに沿って生きていたい。

雨が再び、強まってきた。

 

 

昨年、ラジオ番組への投稿の件について書いた。

実はその後、がんがん投稿するようになったのだった。

運良く採用された際の謎の凹みも薄れ、素直に喜んでいる。

ありがたや。

このブログやTwitterのみならず、今、あちこちに向けて言葉を送っていたりもする(なので要ちぇきら!なんである)。

でもやはり、歯の浮くようなあまーい褒め殺しネタは書けない。

人の投稿を見聞きして

「あ~!この言い回しがあったか!私もこんな風に書いとけば良かった・・・」

と、そこは凹み、もっと言葉の勉強しなきゃと猛省する日々。

媚びへつらう内容の文章って、書いている段階でげんなりするんだよな。

歯に衣着せぬ感じのものならスラスラ書けるんだけど・・・。

 

そこでこのブログ、タイトルの下の紹介文(というのか)を変えてみた。

変に盛ったりせず見たままを撮り、感じたままを変に媚びる事無く言葉にしてみよう。

こっちで吐き出してしまえば、あまーい言葉もするんと出てくるかもしれない(こないかも知れない)。

嘘はつきたくないし、そもそも嘘つけないし。

お世辞が言えない分、せめて素直な人間でありたいなと思う。

 

素直になる。

遅まきながら、私の2017年のテーマにしようかと。

 

 

 

歯に衣着せぬ

 

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薫風

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目映い。

 

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君も。

 

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フリマとハンドメイドマーケットが合体した感じのイベントに出かけてきた。

そしていつものオチ。

冷酒の美味しい時季になってきたな。

 

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ころがれ、あたし。


[MV] Perfume「love the world」

 

そういえばMV貼るのは久しぶりな気がする。

いつものようにタイトルが浮かんできた時、何となくこの曲が頭の中を廻ったので。

普段は自分の事を「私」と言ったり書く機会が圧倒的に多く、「あたし」は余程気心の知れたごく少数の人の前で、それもたまにしか使わない。

年齢的なものもあるし。

でもたまーに使うと、新鮮で良いなと思う。

「あたし」より使う頻度がやや高い「わたくし」は毎回言った後

「うげげ」

となってしまうのだが。

 

それにしても。

今月、私にしては比較的マメにこのブログを稼動させている。

やれば出来るじゃないか、と(ここは素直に自分を褒めてやりたい)。

書く事以上に写真を撮る事が楽しくなってきたのも大きい。

しかし一眼レフや、今はコンデジサイズの機種もあるらしいミラーレスなどには目もくれず、旧いコンデジを使い続けている。

先日の旅の直前にガラケーからスマホに機種変し、早速撮ったものをTwitterにupしてみたけれど

「やっぱりカメラが良いな」

と、スマホの倍以上の枚数を撮りまくってしまった。

写真を撮った!という実感が湧いてくる(あくまで個人の感想ですが)。

当初スマホタブレットを同時購入して、このブログもその時々でどちらかから投稿しようと目論んでいた。

でも今こうしてキーを叩きながら思うのだが、落ち着いて書けるのはやはりPCだな~、と。

そんなこんなで現在は、モバイルノートへの買い替えのためにこつこつ貯金しているところ。

 

言葉の勉強も兼ねて、他の方のブログもよく読ませて頂いている。

表現を生業とされている方・一般の方問わず

「常に揺らいでいる」

文章に、より魅力を感じてしまう。

これは音楽や絵画、写真なども然り。

自分の見たまま・感じたままをさらりと表現出来る人にとても憧れる。

私はその辺が、足元どころか爪先にも及ばないんだよな・・・。

もっともっと人の表現や感情に触れて学ばなければ、と思う。

 

幸せ(あるいはポジティヴ)アピール一辺倒のブログや写真を見る事もあるけれど

「・・・ホントに幸せを感じてるんならわざわざクドクド書くより、まずは彼氏(ダンナ)に直接言ったら?」

とつい、よけーなおせわ!なツッコミを入れてしまうのがあたしのイケナイとこなんだろうなとも思いつつ。

でも実際作者ご本人にお目にかかると、幸せどころかむしろ、何かに苛立ったような印象を受ける場合が多い。

まくし立てるように幸せアピールをする姿に、痛々しさすら感じてしまうのだ。

私のような状況の者からすると羨ましい限りなのだけど、理由は分からないけど、こういう人たちにも色々あるんだろうな・・・。

と、考えたりする(毒吐くだけじゃないです。ホントに)。

立場上どうしても、人付き合いも視野も狭くなりがちになるけど、異なる立場や環境にいる人の考え方や生き方に触れるのも大事だな、って。

 

そんな事を改めて考えながらビールを飲み、これを書いてみた。

最近の記事はえらい長文になっていたので、今日は短めに。

 

 

 

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『Love Letter』と筆者のトリセツ

今週のお題「自己紹介」

 

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

熊本の長崎書店さんで偶然見つけて購入した本。

手に取るのはかれこれ20年ぶり。

当時色々あって2度目の1回生となった際、お世話になった先生に

「あなたのようにドロップアウトした人に、とても参考になる本だと思う」

と勧められて熟読していた。

今改めて読み返すと、決して万人受けの内容ではないと思う。

生き方や心のありようにもがき苦しんだ後、少し冷静になって模索を始めた人が読むと良さそうな感じ。

賛否両論なレビューになるのも頷ける。

「何でそんな事で悩んで、挙句に死を選んでしまったの?」

そりゃそうなんだけど。

でもこれも、前回の記事で書いたように人それぞれだと思うのだ。

生まれ育った環境も、それに対する当人の受け取り方も、それを受けての周囲の受け取り方も。

嫌な人や出来事に遭遇して、上手くスルー出来る人もいればまるごと受け止めて悩み苦しむ人だっている。

無論私は後者で、悩み苦しみ体調悪化した挙句に自死を図るまで追い込んでしまった。

ここまで這い上がるまで20年以上かかった。

とは言っても

「この酷い生育歴への恨みで誰かに手をかけてもおかしくない状態だったのに、法に触れる行為には全く及ばんかったもんねえ。よく辛抱したわ~」

と周囲の人と真面目に(?)語り合ったり。

あと、死のうと思い夜通し知らない街を歩き回った末、白に染まった空の端から太陽が昇ってくるのを目の当たりにし、ひどく心を打たれて思い留まったり。

といったエピソードを滔々と語ったところで、おそらく大多数と思われる【スルー出来る人】や【真っ当な生育歴の人】からは

「ふーん」

で終わるか、ドン引きされるかのいずれかだろう。

 

こんなネガティヴの海からポジティヴの粒を必死で拾い集めながら生きている人間が、せこせこ書いております。

ダメージも受けやすいけど、褒められるのも未だに居心地悪く感じてしまう。

これからも色んな人、特に自分と考えや生き方が異なる人と関わっていきたい。

いつも書いているけど、人生後半に突入しても学ぶ事はまだまだたくさんあると思うから。

 

それにしても。

【超個人的な内容の文を、実在する特定の人に向けて書く】

という意図で始めたこのブログ(もちろんその時々で対象は変えている)。

『Love Letter』なのに甘い要素が無く、むしろネガティヴで辛辣な言葉をこれでもかと並べ立てている気もする。

そもそもいちばん最初にはてなダイアリーを始めた時は、他の当事者さんと同じく

発達障害と二次症状について理解してもらいたい」

という一心だった。

ところが診断を受け、他の障がい者さんも含めたくさんの人と関わるようになって徐々にテーマが変わってきた。

発達障害云々以前に、障がい者の実像がほとんど認知されていないのでは」

と思うようになった。

障がい者だって、みんなとおんなじだよ」

特性や症状と向き合う姿、社会と向き合い続ける姿、日々思うこと。

もちろん欲求もあるし、悩み苦しむ事も、嬉しい事もある。

以前どこかの掲示板で

アスペルガーは性欲が強い」

とか書かれていて、ムカッとした事がある。

当時の私は、聴覚以外にも触覚の過敏さがあった。

同性からのスキンシップも拒絶するほどだったので、男性とのお付き合いからその先、どころの話ではない。

その事もきっかけになり、一方的な理解と支援を訴えるより、そのままの自分を見てもらった方がいいのではないか?と考えるようになった。

健常者の社会に身を投じてみて感じたことをつぶさに書き記していこう。

特性や人間関係での困難に向き合う姿も、余すところ無く。

 

障がい者も、みんなとおんなじ。

見た目も生き方も心のありようも人それぞれ、なのもおんなじ。

『みんなちがって みんないい』

はずなのに。

なんで枠組みとか縛りを作ろうとするのかな。

右ならえにならなくちゃいけないのかな。

障がい者のみならず、人々の意識も含めて社会全体がバリアフリーになっていきますように。

いや、していかなくちゃ!と思いながら。

 

「どんな姿かたちでどんな性格であっても、その時の家庭環境が厳しいものであったとしても、あなたの許に降ろされたいのちを、めいっぱい愛してあげてください」

 

これも、今後も訴え続けていきたいことのひとつ。

前回も書いたけれど、人としての基盤づくりはとても大切だから。

子どもの頃に愛されて育った人ほど、丁寧に人を愛する事が出来るという話を耳にした事があるけど、本当にそう思う。

不惑にして、未だに人を愛する事に右往左往している自分の現状も鑑みつつ(涙)

 

今回も長くなってしまった。

スマホだとすごく読みづらいだろうなー、とつくづく思う・・・。

 

ちなみに。

文章がネガティヴで辛辣な分、写真に意味を込めていたりする。

Twitterでいえば、お気に入り欄。

本来のラブレターに綴られる言葉は、伝えたい人に面と向かって伝えるに限る(当然)。

相変わらず後ずさりしがちな現状だけど、気持ちは、ちゃんと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

love letter

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本日2度目の投稿。

いつものように内容とタイトルを考えていて、どうにもこの言葉しか浮かばなかった。

という訳で、ブログと同じタイトル。

このタイトルでブログを書く意図については以前のお題で説明したので割愛するけれど、こんな超個人的な内容の文章を読んで下さっている方がいらっしゃるとはゆめゆめ考えもせず(ありがとうございます!)。

その数が増えている事に嬉しい悲鳴、と同時にビクビクしつつまずは前回の続きから。

 

「そもそも、鏡を見る事や写真を撮られるのを嫌がるようになったのはいつ頃だったんだろう」

思い返してみると、やはり発達障害の特性が現れ始めた小学校低学年だった。

学校でも家庭でも

「なんで皆と同じようにできないの!」

「この子は問題児だ」

「頭おかしい。へんな子」

といった事を先生たちからも面と向かって言われ続け、酷いイジメにも遭った。

でも、今振り返って思うのは、障がいの有無や家庭環境云々ではなく、それに対する周りの理解や対応の方が子どもの成長には大事な事ではないかと。

「みんな、このままのわたしをうけいれてくれている」

という基礎があれば、ここまでネガティヴの塊で居続ける事にはならなかっただろう。

 

そんなネガティヴの塊は、ポジティヴの塊の人が苦手だ。

「苦しくて辛いと感じる時もあるでしょう?」

という問いに対し

「苦しみなんて無いです♪生きていて楽しい事ばかりです♪」

と、どこまでも自己肯定オンリーな答えを返してくるような。

こんな人に遭遇するとついイライラして

「嘘つけ!」

と内心突っ込みを入れてしまう。

「苦しみの無い人生なんてある訳無い。苦しみの先にあるものを目指して人は歩んでいくものだと思うんだ」

どうにも理解に苦しみ、例によって周囲の人たちに相談(というかグチ)。

で、

「もしかしたら、そういう人は常に愛され肯定されながら生きてきたんじゃないか」

と(つまり私と真逆の人生)。

これは分かり合いようが無いんだよなあ、と。

 

あと、音楽の聴き方も。

私にとってネガティヴな時に背中を押してくれ、そうでない時は力を足してくれる存在。

曲の世界にどっぷり浸ってトリップして・・・なんぞという経験が無く、それが出来る人たちをかねがね不思議に思っていたのだけれど。

「帰れる場所・安らげる空間という基盤があるからこそトリップ出来るのかな?」

ふと思った。

先日まさしく【trip】し、帰宅してホッとした自分。

長らくニートで引きこもりで病気を患い、挙句に自死を図った頃を思えば、今の状況はとても恵まれていると思う。

とはいえ居場所も受け止めてくれる人も無く、生きる事そのものに必死な時期が長いと『何度でも』のような曲の方が心により沁み込んでくる。

そうすると、普段ライヴで曲を聴いても涙を見せないヤツが全力で唄いきる美和さんを見て思わず・・・なんて現象が生じてしまうのだった。

 

私は、基盤が作られないまま肉体だけが成長していった人間だと思っている。

TVのリフォーム番組の流れでありがちな、【不十分だった基礎部分を補強する】という段階を生きているのが今なのかな、と。

ただ決定的に違うのは、日々右往左往というか、行きつ戻りつ感が凄く。

これまで人と関わる事を避けてきたのは、特性上の理由以上に、人としてのややこしさ故もあった。

早い話、トリセツが分厚過ぎる。

どう受け取られてもこの脳味噌・この身体で生きて行く事に変わりは無い。

愛し愛され、障がい者とも無縁の家庭で育ってきた人に、果たして私は理解してもらえるのだろうか。

これ以上身体と人格を否定されてしまうのが怖かった。

 

今回思い出した事がもうひとつ。

当時自分を着飾る事と、鏡すら見ようともしなかった私を見かねて(というか半ば呆れられながら)元カレに、鏡をプレゼントされた事がある。

「誰かと向き合う前にまず、自分の姿を見つめて向き合っていかなきゃ」

と、鏡に映る自分を落ち着いて見られるようになった今、初めて考えるようになった。

そして改めて、こうして書きながら自分自身のややこしさに頭を抱えている・・・。

 

「こんな私なんですけど、かなりややこしい人なんですけど、大丈夫ですか?」

と、聞いてみたい。

でも怖い、といったところか。

 

ズササササーッ

と引き下がって、カウンターの端っこで静かに飲んでいたい。

ような。

それと同時に

「私に関わったり、今後関わるであろう人たちの事も、ちゃんと考えてるつもりです・・・(小声←何故か敬語)」

とも呟きたいような。

何だかウジウジしたシメになってしまった。

 

 

今週のお題とリンクして書く事も考えたけど、何しろ個人的過ぎる内容。

そしてえらい長文になってしまったので、止めておいた(当ブログ史上最大文字数!)。

生き方や考え方に、誰もが当てはまる答えは無い。

問いも答えも、各々の中にある。

【人それぞれ】が当たり前になっていったらな、と思う。

 

あと最近思うのは

「好きだ」

「興味がある」

といった前向きな理由だけじゃなく

「苦手」

「理解出来ない」

も、人と繋がっていくきっかけになるのかも知れない。

物事は、受け取り方次第で変えていける気もしてきている。

今日も変わらず小さな学びをひっそりこつこつ続ける、不惑歴2年+αの春真っ盛り。

 

 

 

 

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