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Love Letter ver.2

アラフィフ間近の発達障害者が綴る、見たまま・感じたままの記録

素直になる

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空間を見ているようで、腰掛けに別の何かを見つめていた(気もする)。

 

最近、やたらと色合いの鮮やかな写真を撮っている。

悲惨な事件や腹の立つ事(おもに政治)も相変わらず多いし、たまには空や光を心から感じてみたいのもあるのかなー、と思ったり。

ちなみにこれを書いている今、雨が強弱を繰り返しながら降り続いている。

これでまた、緑が鮮やかになり作物が生長していく。

人間界のゴタゴタに関係なく、自然界はごく当たり前の営みを繰り返す。

どうせなら、自然のリズムに沿って生きていたい。

雨が再び、強まってきた。

 

 

昨年、ラジオ番組への投稿の件について書いた。

実はその後、がんがん投稿するようになったのだった。

運良く採用された際の謎の凹みも薄れ、素直に喜んでいる。

ありがたや。

このブログやTwitterのみならず、今、あちこちに向けて言葉を送っていたりもする(なので要ちぇきら!なんである)。

でもやはり、歯の浮くようなあまーい褒め殺しネタは書けない。

人の投稿を見聞きして

「あ~!この言い回しがあったか!私もこんな風に書いとけば良かった・・・」

と、そこは凹み、もっと言葉の勉強しなきゃと猛省する日々。

媚びへつらう内容の文章って、書いている段階でげんなりするんだよな。

歯に衣着せぬ感じのものならスラスラ書けるんだけど・・・。

 

そこでこのブログ、タイトルの下の紹介文(というのか)を変えてみた。

変に盛ったりせず見たままを撮り、感じたままを変に媚びる事無く言葉にしてみよう。

こっちで吐き出してしまえば、あまーい言葉もするんと出てくるかもしれない(こないかも知れない)。

嘘はつきたくないし、そもそも嘘つけないし。

お世辞が言えない分、せめて素直な人間でありたいなと思う。

 

素直になる。

遅まきながら、私の2017年のテーマにしようかと。

 

 

 

歯に衣着せぬ

 

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薫風

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目映い。

 

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君も。

 

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フリマとハンドメイドマーケットが合体した感じのイベントに出かけてきた。

そしていつものオチ。

冷酒の美味しい時季になってきたな。

 

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ころがれ、あたし。


[MV] Perfume「love the world」

 

そういえばMV貼るのは久しぶりな気がする。

いつものようにタイトルが浮かんできた時、何となくこの曲が頭の中を廻ったので。

普段は自分の事を「私」と言ったり書く機会が圧倒的に多く、「あたし」は余程気心の知れたごく少数の人の前で、それもたまにしか使わない。

年齢的なものもあるし。

でもたまーに使うと、新鮮で良いなと思う。

「あたし」より使う頻度がやや高い「わたくし」は毎回言った後

「うげげ」

となってしまうのだが。

 

それにしても。

今月、私にしては比較的マメにこのブログを稼動させている。

やれば出来るじゃないか、と(ここは素直に自分を褒めてやりたい)。

書く事以上に写真を撮る事が楽しくなってきたのも大きい。

しかし一眼レフや、今はコンデジサイズの機種もあるらしいミラーレスなどには目もくれず、旧いコンデジを使い続けている。

先日の旅の直前にガラケーからスマホに機種変し、早速撮ったものをTwitterにupしてみたけれど

「やっぱりカメラが良いな」

と、スマホの倍以上の枚数を撮りまくってしまった。

写真を撮った!という実感が湧いてくる(あくまで個人の感想ですが)。

当初スマホタブレットを同時購入して、このブログもその時々でどちらかから投稿しようと目論んでいた。

でも今こうしてキーを叩きながら思うのだが、落ち着いて書けるのはやはりPCだな~、と。

そんなこんなで現在は、モバイルノートへの買い替えのためにこつこつ貯金しているところ。

 

言葉の勉強も兼ねて、他の方のブログもよく読ませて頂いている。

表現を生業とされている方・一般の方問わず

「常に揺らいでいる」

文章に、より魅力を感じてしまう。

これは音楽や絵画、写真なども然り。

自分の見たまま・感じたままをさらりと表現出来る人にとても憧れる。

私はその辺が、足元どころか爪先にも及ばないんだよな・・・。

もっともっと人の表現や感情に触れて学ばなければ、と思う。

 

幸せ(あるいはポジティヴ)アピール一辺倒のブログや写真を見る事もあるけれど

「・・・ホントに幸せを感じてるんならわざわざクドクド書くより、まずは彼氏(ダンナ)に直接言ったら?」

とつい、よけーなおせわ!なツッコミを入れてしまうのがあたしのイケナイとこなんだろうなとも思いつつ。

でも実際作者ご本人にお目にかかると、幸せどころかむしろ、何かに苛立ったような印象を受ける場合が多い。

まくし立てるように幸せアピールをする姿に、痛々しさすら感じてしまうのだ。

私のような状況の者からすると羨ましい限りなのだけど、理由は分からないけど、こういう人たちにも色々あるんだろうな・・・。

と、考えたりする(毒吐くだけじゃないです。ホントに)。

立場上どうしても、人付き合いも視野も狭くなりがちになるけど、異なる立場や環境にいる人の考え方や生き方に触れるのも大事だな、って。

 

そんな事を改めて考えながらビールを飲み、これを書いてみた。

最近の記事はえらい長文になっていたので、今日は短めに。

 

 

 

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『Love Letter』と筆者のトリセツ

今週のお題「自己紹介」

 

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

熊本の長崎書店さんで偶然見つけて購入した本。

手に取るのはかれこれ20年ぶり。

当時色々あって2度目の1回生となった際、お世話になった先生に

「あなたのようにドロップアウトした人に、とても参考になる本だと思う」

と勧められて熟読していた。

今改めて読み返すと、決して万人受けの内容ではないと思う。

生き方や心のありようにもがき苦しんだ後、少し冷静になって模索を始めた人が読むと良さそうな感じ。

賛否両論なレビューになるのも頷ける。

「何でそんな事で悩んで、挙句に死を選んでしまったの?」

そりゃそうなんだけど。

でもこれも、前回の記事で書いたように人それぞれだと思うのだ。

生まれ育った環境も、それに対する当人の受け取り方も、それを受けての周囲の受け取り方も。

嫌な人や出来事に遭遇して、上手くスルー出来る人もいればまるごと受け止めて悩み苦しむ人だっている。

無論私は後者で、悩み苦しみ体調悪化した挙句に自死を図るまで追い込んでしまった。

ここまで這い上がるまで20年以上かかった。

とは言っても

「この酷い生育歴への恨みで誰かに手をかけてもおかしくない状態だったのに、法に触れる行為には全く及ばんかったもんねえ。よく辛抱したわ~」

と周囲の人と真面目に(?)語り合ったり。

あと、死のうと思い夜通し知らない街を歩き回った末、白に染まった空の端から太陽が昇ってくるのを目の当たりにし、ひどく心を打たれて思い留まったり。

といったエピソードを滔々と語ったところで、おそらく大多数と思われる【スルー出来る人】や【真っ当な生育歴の人】からは

「ふーん」

で終わるか、ドン引きされるかのいずれかだろう。

 

こんなネガティヴの海からポジティヴの粒を必死で拾い集めながら生きている人間が、せこせこ書いております。

ダメージも受けやすいけど、褒められるのも未だに居心地悪く感じてしまう。

これからも色んな人、特に自分と考えや生き方が異なる人と関わっていきたい。

いつも書いているけど、人生後半に突入しても学ぶ事はまだまだたくさんあると思うから。

 

それにしても。

【超個人的な内容の文を、実在する特定の人に向けて書く】

という意図で始めたこのブログ(もちろんその時々で対象は変えている)。

『Love Letter』なのに甘い要素が無く、むしろネガティヴで辛辣な言葉をこれでもかと並べ立てている気もする。

そもそもいちばん最初にはてなダイアリーを始めた時は、他の当事者さんと同じく

発達障害と二次症状について理解してもらいたい」

という一心だった。

ところが診断を受け、他の障がい者さんも含めたくさんの人と関わるようになって徐々にテーマが変わってきた。

発達障害云々以前に、障がい者の実像がほとんど認知されていないのでは」

と思うようになった。

障がい者だって、みんなとおんなじだよ」

特性や症状と向き合う姿、社会と向き合い続ける姿、日々思うこと。

もちろん欲求もあるし、悩み苦しむ事も、嬉しい事もある。

以前どこかの掲示板で

アスペルガーは性欲が強い」

とか書かれていて、ムカッとした事がある。

当時の私は、聴覚以外にも触覚の過敏さがあった。

同性からのスキンシップも拒絶するほどだったので、男性とのお付き合いからその先、どころの話ではない。

その事もきっかけになり、一方的な理解と支援を訴えるより、そのままの自分を見てもらった方がいいのではないか?と考えるようになった。

健常者の社会に身を投じてみて感じたことをつぶさに書き記していこう。

特性や人間関係での困難に向き合う姿も、余すところ無く。

 

障がい者も、みんなとおんなじ。

見た目も生き方も心のありようも人それぞれ、なのもおんなじ。

『みんなちがって みんないい』

はずなのに。

なんで枠組みとか縛りを作ろうとするのかな。

右ならえにならなくちゃいけないのかな。

障がい者のみならず、人々の意識も含めて社会全体がバリアフリーになっていきますように。

いや、していかなくちゃ!と思いながら。

 

「どんな姿かたちでどんな性格であっても、その時の家庭環境が厳しいものであったとしても、あなたの許に降ろされたいのちを、めいっぱい愛してあげてください」

 

これも、今後も訴え続けていきたいことのひとつ。

前回も書いたけれど、人としての基盤づくりはとても大切だから。

子どもの頃に愛されて育った人ほど、丁寧に人を愛する事が出来るという話を耳にした事があるけど、本当にそう思う。

不惑にして、未だに人を愛する事に右往左往している自分の現状も鑑みつつ(涙)

 

今回も長くなってしまった。

スマホだとすごく読みづらいだろうなー、とつくづく思う・・・。

 

ちなみに。

文章がネガティヴで辛辣な分、写真に意味を込めていたりする。

Twitterでいえば、お気に入り欄。

本来のラブレターに綴られる言葉は、伝えたい人に面と向かって伝えるに限る(当然)。

相変わらず後ずさりしがちな現状だけど、気持ちは、ちゃんと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

love letter

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本日2度目の投稿。

いつものように内容とタイトルを考えていて、どうにもこの言葉しか浮かばなかった。

という訳で、ブログと同じタイトル。

このタイトルでブログを書く意図については以前のお題で説明したので割愛するけれど、こんな超個人的な内容の文章を読んで下さっている方がいらっしゃるとはゆめゆめ考えもせず(ありがとうございます!)。

その数が増えている事に嬉しい悲鳴、と同時にビクビクしつつまずは前回の続きから。

 

「そもそも、鏡を見る事や写真を撮られるのを嫌がるようになったのはいつ頃だったんだろう」

思い返してみると、やはり発達障害の特性が現れ始めた小学校低学年だった。

学校でも家庭でも

「なんで皆と同じようにできないの!」

「この子は問題児だ」

「頭おかしい。へんな子」

といった事を先生たちからも面と向かって言われ続け、酷いイジメにも遭った。

でも、今振り返って思うのは、障がいの有無や家庭環境云々ではなく、それに対する周りの理解や対応の方が子どもの成長には大事な事ではないかと。

「みんな、このままのわたしをうけいれてくれている」

という基礎があれば、ここまでネガティヴの塊で居続ける事にはならなかっただろう。

 

そんなネガティヴの塊は、ポジティヴの塊の人が苦手だ。

「苦しくて辛いと感じる時もあるでしょう?」

という問いに対し

「苦しみなんて無いです♪生きていて楽しい事ばかりです♪」

と、どこまでも自己肯定オンリーな答えを返してくるような。

こんな人に遭遇するとついイライラして

「嘘つけ!」

と内心突っ込みを入れてしまう。

「苦しみの無い人生なんてある訳無い。苦しみの先にあるものを目指して人は歩んでいくものだと思うんだ」

どうにも理解に苦しみ、例によって周囲の人たちに相談(というかグチ)。

で、

「もしかしたら、そういう人は常に愛され肯定されながら生きてきたんじゃないか」

と(つまり私と真逆の人生)。

これは分かり合いようが無いんだよなあ、と。

 

あと、音楽の聴き方も。

私にとってネガティヴな時に背中を押してくれ、そうでない時は力を足してくれる存在。

曲の世界にどっぷり浸ってトリップして・・・なんぞという経験が無く、それが出来る人たちをかねがね不思議に思っていたのだけれど。

「帰れる場所・安らげる空間という基盤があるからこそトリップ出来るのかな?」

ふと思った。

先日まさしく【trip】し、帰宅してホッとした自分。

長らくニートで引きこもりで病気を患い、挙句に自死を図った頃を思えば、今の状況はとても恵まれていると思う。

とはいえ居場所も受け止めてくれる人も無く、生きる事そのものに必死な時期が長いと『何度でも』のような曲の方が心により沁み込んでくる。

そうすると、普段ライヴで曲を聴いても涙を見せないヤツが全力で唄いきる美和さんを見て思わず・・・なんて現象が生じてしまうのだった。

 

私は、基盤が作られないまま肉体だけが成長していった人間だと思っている。

TVのリフォーム番組の流れでありがちな、【不十分だった基礎部分を補強する】という段階を生きているのが今なのかな、と。

ただ決定的に違うのは、日々右往左往というか、行きつ戻りつ感が凄く。

これまで人と関わる事を避けてきたのは、特性上の理由以上に、人としてのややこしさ故もあった。

早い話、トリセツが分厚過ぎる。

どう受け取られてもこの脳味噌・この身体で生きて行く事に変わりは無い。

愛し愛され、障がい者とも無縁の家庭で育ってきた人に、果たして私は理解してもらえるのだろうか。

これ以上身体と人格を否定されてしまうのが怖かった。

 

今回思い出した事がもうひとつ。

当時自分を着飾る事と、鏡すら見ようともしなかった私を見かねて(というか半ば呆れられながら)元カレに、鏡をプレゼントされた事がある。

「誰かと向き合う前にまず、自分の姿を見つめて向き合っていかなきゃ」

と、鏡に映る自分を落ち着いて見られるようになった今、初めて考えるようになった。

そして改めて、こうして書きながら自分自身のややこしさに頭を抱えている・・・。

 

「こんな私なんですけど、かなりややこしい人なんですけど、大丈夫ですか?」

と、聞いてみたい。

でも怖い、といったところか。

 

ズササササーッ

と引き下がって、カウンターの端っこで静かに飲んでいたい。

ような。

それと同時に

「私に関わったり、今後関わるであろう人たちの事も、ちゃんと考えてるつもりです・・・(小声←何故か敬語)」

とも呟きたいような。

何だかウジウジしたシメになってしまった。

 

 

今週のお題とリンクして書く事も考えたけど、何しろ個人的過ぎる内容。

そしてえらい長文になってしまったので、止めておいた(当ブログ史上最大文字数!)。

生き方や考え方に、誰もが当てはまる答えは無い。

問いも答えも、各々の中にある。

【人それぞれ】が当たり前になっていったらな、と思う。

 

あと最近思うのは

「好きだ」

「興味がある」

といった前向きな理由だけじゃなく

「苦手」

「理解出来ない」

も、人と繋がっていくきっかけになるのかも知れない。

物事は、受け取り方次第で変えていける気もしてきている。

今日も変わらず小さな学びをひっそりこつこつ続ける、不惑歴2年+αの春真っ盛り。

 

 

 

 

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いろづき

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ブレブレになってしまった一枚。

でもこの後、桜の花びらを両の手で受け取れたので良しとしたい(良い事が起こる、と耳にしたので。真偽は不明)。

 

こうして写真を撮るのは大好きだけれど、撮られるのは昔から苦手。

記録された自分の姿を見るのがどうにも苦痛だった。

同じように、鏡で自分の顔を見るのも大嫌い。

例え仕上がり具合がちぐはぐになっても、メイクをする時はファンデーションの小さな鏡しか使わなかった。

自分の容貌を忌み嫌っていた、とずっと思い込んでいた。

 

それに気付いたのが、先々週の事。

熊本から博多に移動し、宿でチェックインを済ませて早速お風呂に入った(旅先での夜の外出の前、湯船に浸かるのが習慣となっている)。

その後身支度を済ませメイクをしようと椅子に座り、何気なく目の前のスタンドミラーを見た。

自分の顔をまじまじと見つめたのは、母親の口紅をこっそり塗ってみた幼少期以来だったと思う。

「あれ?私の顔、ちゃんと目鼻あってハッキリしてる・・・?」

愕然とした。

ずーっと自分はのっぺらぼうな容貌だと信じて疑わなかったのだ。

そのためベースメイクこそきちんとするものの、アイシャドウなどはごくごく薄く伸ばす程度。

「もっと濃くつけていいんだよ」

と言われても聴く耳持たずで、たまに美容部員さんにタッチアップされようものなら、映し出された自分の顔を見るのがおぞましくて早々に購入を決めていたものだった。

おそらく、ナチュラルメイクというよりはほぼすっぴんでいた20数年間。

「これ・・・もうちょっと濃いめに塗っても、だ、大丈夫だよな・・・」

と、恐る恐る塗り重ねていった。

いつの間にか、鏡の中の自分を見る事が平気になっていたのだった。

 

私の場合、身体醜形障害(醜形恐怖症)というよりうつ病も含めた内面のコンプレックスから自分は醜い、目も当てられない顔だと思い込むようになったのだと思う。

相変わらず他人と比較してしまう癖は抜けておらず、その度に

「私は人間的に濁ってる。歪んでる。ドロドロしてる・・・」

と心揺さぶられ落ち込んでしまう。

元々感受性が強過ぎるし、それ故にダメージも受けやすい。

ならば。

まずはその痛みを感じながら、心の揺れが静まるのを待つ。

今回も揺れと沈静を経て、この記事を書き始めた。

 

長らく縛り付けていた自己否定の鎖を解き始めると、次々と露になる自分の至らなさ。

日々思い知らされていて、もう本当に泣きたくなる(今も若干涙ぐみながら書いているけど)。

この痛みを、糧に変える。

 

少なくとも、そんなに残念な容貌ではない(平凡なレベル)と気付けただけでも心底ホッとした。

メイク「アップ」だもんな。

綺麗になろう。

成長しなきゃ。

伸び代は、まだまだたくさんある気がする。

 

 

 

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気分的には早くも夏

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と、数日前にTwitterで呟いたばかり。

まさかこんなに気温が上がるとは。

初夏の(春だけど)風が心地好い。

しかし暑かった・・・。

半袖でも汗ばむほどだった。

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